東京の下町・荒川区の南千住にプロ野球本拠地があったことをご存知でしょうか。
千葉ロッテマリーンズの前身にあたる毎日大映オリオンズの本拠地であった「東京スタジアム(通称:東京球場)」は「光の球場」とも呼ばれ、戦後プロ野球を支えた球場でした。

当記事では、東京スタジアムの特徴や歴史について簡単にご紹介します。
ぜひプロ野球のウンチクとして、誰かに語ってみてください。
※冒頭の画像はイメージです
東京スタジアムの基本情報
東京スタジアムの基本情報は以下のとおりです。
球場所在地 | 東京都荒川区南千住 |
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広さ | 両翼約90m、中堅約120m |
収容人数 | 約35,000人 |
プロ野球公式戦開催実績 | 一軍公式戦 844試合 |
球場運営期間 | 1962年~1972年 |
メジャーリーグを参考に作られた球場で、巨大照明塔や電光掲示板など、当時としては革新的な設備が特徴でした。
夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から「光の球場」としても有名です。
左中間、右中間の膨らみがなく一直線に近い造りであり、ホームランの非常に出やすい球場でした。(1試合平均2.27本)
開場当初は「映画館やレストラン、デパートも併設して総合レジャー施設にしたい」という壮大な構想もあったようです。
結果的には地下にボウリング場、シーズンオフにはスケートリンクが設置されるという程度にはとどまりましたが、「ボールパーク構想」とも呼べる東京スタジアムの思想は、日本の球場建設に大いに影響を与えていると言えるでしょう。
東京スタジアムの歴史
開催された一軍試合数 | 844試合 |
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主な主催球団 | 毎日大映オリオンズ →東京オリオンズ →ロッテオリオンズ |
東京スタジアムに関する歴史を、名場面を中心に簡単に振り返ります。
- 球場の設立は毎日大映オリオンズのオーナーの永田雅一
- 「下町に自前の球場を造りたい」という想いから私財を投じて設立
※当時は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としており、過密日程が問題にもなっていた。
- 1962年6月2日、当時のパ・リーグ全6球団がスタジアムに集結し開場式を開催
- その後に開催された大毎オリオンズ対南海ホークス7回戦にて、野村克也が球場第1号ホームラン
- 1960年代のプロ野球は巨人V9の時代であり、人気はセ・リーグ偏重
- 特にオリオンズはBクラスが続いたこともあり、パ・リーグの中でも客足が遠のく
- 年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたが、開場6年目(1967年)はリーグ最少の28万人であり、1試合平均は約4,000人と低迷した。
- 1969年、ロッテを冠スポンサーとし「ロッテオリオンズ」に改称
- 1970年10月7日、10年ぶりのリーグ優勝を東京スタジアムで決める
- 東京スタジアムのグラウンドにファンが流れ込み、オーナーを胴上げする姿はロッテの歴史の1ページとして語り継がれる名場面
- 親会社の大映は経営難に陥っており、優勝翌年の1971年には経営権もロッテに譲渡
- 東京スタジアムの累積赤字も膨らんでおり、球場の買い手は見つからなかった
- 結果的に開場からわずか11年で閉鎖が決定し、1977年には球場は解体された
1960年代のパ・リーグを盛り上げた球場であることは間違いありません。
一方でセ・リーグに人気が偏っていた当時の球場経営は深刻であり、わずか11年で閉鎖という結末になりました。
東京23区内の立地に3万人を収容可能な球場は貴重であり、閉鎖されてしまったことは残念ですね。。。
現在の東京スタジアムの跡地
現在この場所は、荒川総合スポーツセンターとして生まれ変わっています。
体育館やプール、軟式野球場などの競技施設を備えています。
残念ながら跡地には東京スタジアムのモニュメント等はありませんので、当時の様子を感じることはできません。
公共交通機関の利便性も比較的高く「ここにプロ野球本拠地があったら・・・」と野球ファンとしては思ってしまいますが、ここのプールはあの金メダリスト・北島康介選手が幼少期に利用していたことでも有名です。
そういった話を聞くと、今の形で良かったのかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。