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【閉鎖済】東京・三鷹の野球場「武蔵野グリーンパーク」とは?跡地を散歩してみた

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武蔵野グリーンパーク跡地

吉祥寺駅や三鷹駅が位置する東京都・武蔵野市。

ここにかつて「東日本一の大球場」とも呼ばれたプロ野球球場があったことはご存知でしょうか。

国鉄スワローズ(現・ヤクルト)の本拠地として想定されていた「武蔵野グリーンパーク」です。

実際に稼働したのは1951年の1シーズンだけであり、幻の球場のような印象も持たれています。

当記事では、武蔵野グリーンパークの特徴や歴史について簡単に整理したうえで、跡地について紹介します。

ぜひプロ野球のウンチクとして、誰かに語ってみてください。

目次

武蔵野グリーンパーク野球場の基本情報

「武蔵野グリーンパーク」の基本情報は以下のとおりです。

名称東京スタディアム
※通称:武蔵野グリーンパーク
※表記:武蔵野球場、三鷹球場
球場所在地東京都武蔵野市緑町二丁目
広さ両翼約91.5m、中堅約128m
収容人数約70,000人
プロ野球公式戦開催実績16試合
球場運営期間1951年~1956年(実質実働1シーズン)

グラウンドのサイズ、観客収容人数は現代のプロ野球本拠地と比べてもトップクラスの大型球場です。

実際に建設当時は「東日本一の大球場」と呼ばれており、ナイター照明も完備した立派な球場でした。

しかしながら当時は「アクセスが不便」という評価であり、砂塵が酷い等グラウンドコンディションもイマイチであったことからわずか1シーズンのみの稼働に終わってしまいました。

あまりにも短命であったため、呼称も「東京スタディアム」「武蔵野グリーンパーク」「武蔵野球場」「三鷹球場」など定まらず、知名度も上がらないまま閉鎖となってしまいました。

武蔵野グリーンパーク野球場とプロ野球の歴史

開催された一軍試合数16試合
主な主催球団国鉄スワローズ(現・ヤクルト)

短命に終わってしまった武蔵野グリーンパークですが、その歴史を簡単に振り返ります。

設立時のプロ野球事情(1950年代)
  • 戦後は明治神宮野球場がGHQに接収されており使用できなかった
  • プロ野球は後楽園球場を中心に開催されていたが、球場不足が課題であった
  • 球場不足問題を受け、GHQから返還されていた中島飛行機武蔵製作所跡地に球場を建設する運びとなった(これが武蔵野グリーンパーク)
武蔵野グリーンパーク稼働
  • 1951年4月、東京六大学の春季リーグ戦にて初使用
  • 1951年5月5日、国鉄VS名古屋戦にてプロ野球初開催
  • 三鷹駅から野球場前に鉄道も整備され、試合日には東京駅からの直通電車も運行
武蔵野グリーンパーク閉鎖
  • 突貫工事で完成した球場であったためグラウンドコンディションは悪く、砂塵が飛び交う等プレーにも影響を与える状態であった
  • 当時はアクセスも悪い郊外の球場という評価であり、観客の評判もイマイチであった
  • 1952年には神宮球場のQHQによる接収が解除され、球場不足問題も緩和された

→こうした事情から国鉄スワローズも武蔵野グリーンパークへ専用本拠地として移転することはなく、1951年のみの稼働で閉鎖となった(運営会社も1953年に解散、野球場は1956年に解体)

戦後復興期でプロ野球も不安定であった時代に、突貫で作られたもののうまく稼働できなかった歴史と言えます。

ここまで大規模な球場をわずか1年で閉鎖してしまうというのは現代の感覚ではありえないように感じますが、戦後復興期で不安定だったからこその「幻の球場」と言えるでしょう。

武蔵野グリーンパークの跡地を散歩してみた

武蔵野グリーンパークの跡地は現在、緑町パークタウンとして整備されており、集合住宅となっています。

集合住宅エリアの周囲は緩く大きな楕円を描く道路に囲まれており、地図上にも球場の名残を感じられます。

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