高校野球の聖地・甲子園球場を知らない野球ファンはほとんどいないでしょう。
では、甲子園が造られる前には、どこで大会が行われていたかご存知でしょうか。
それが当記事で紹介する「鳴尾球場」です。
実際に跡地を訪問しましたので、楽しんでいただければ幸いです。
「鳴尾球場」の基本情報
鳴尾球場は大正時代に存在した野球場です。
現在の高校野球(当時は全国中等学校優勝野球大会)の会場として活用されました。
名称 | 鳴尾球場 |
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球場所在地 | 兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市) |
収容人数 | 5,000~6,000人 |
プロ野球公式戦開催実績 | なし |
球場運営期間 | 1916年~不明(1924年頃?) |
学生野球黎明期を支えた「甲子園の前身」
鳴尾球場は学生野球の黎明期を支えた野球界にとって重要な球場です。
- 全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の第1回大会は豊中グラウンドで開催された
- 交通網に課題があった豊中グラウンドに代わって、阪神電鉄の協力もあり会場が鳴尾球場へ
- 第3回大会~第9回大会まで鳴尾球場が大会会場となった
- 鳴尾球場は観客収容数に課題があり、大会主催者(当時:大阪朝日新聞社)は本格的な野球場の建設を阪神電鉄へ打診
- 1924年に甲子園大運動場(現・阪神甲子園球場)が開場し、大会会場も甲子園へと移った
短い期間ではあったものの、甲子園が完成するまでの間、高校野球を支えた球場だったわけです。
鳴尾球場の閉鎖時期について記録は残っていませんが、甲子園完成をもって役割を終えたと考えられます。
アクセス
鳴尾球場跡地は甲子園球場の南方面に位置します。
所在地 | 兵庫県西宮市枝川町19(浜甲子園運動公園内) |
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最寄り駅 | 阪神「甲子園駅」から徒歩約25分 ※甲子園球場から15分~20分 |
見学可能時間 | 屋外のため制限なし(自由に見学可) |
甲子園球場の外野側(野球塔)から南にまっすぐ進むとたどり着くので、道に迷う心配はありません。

鳴尾球場跡地の様子
ここからは実際の現地の様子のレポートです。
公園入り口付近から撮影した様子がこちら。
何もない場所だからこそ、記念碑がひときわ目立っていました。

はっきりと鳴尾球場跡地と石碑がおかれています。
バッテリーと思われる記念碑です。

後ろ姿はこんな感じです。
ユニフォームのしわまで表現されており、リアリティがありました。

記念碑の正面には鳴尾球場跡の歴史も刻まれています。

鳴尾球場跡地
全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会は、大正四年(一九一五)大阪・豊中球場で産声をあげ、第五回(大正九年)大会の七校増加を見せ、全国的な盛りあがりを示した。フィールドが狭く、観覧席も不足し、以後の開催が困難なため、大会は鳴尾球場に会場を移した。
大正七年米騒動のため第四回大会が中止されたが、大正十一年の第七回大会から第九回大会まで、三回の全国大会が行われた。
鳴尾球場は明治四十三年(一九一〇)関西競馬倶楽部の地に行われた阪神競馬倶楽部が建設したものである。競馬、倶楽部活動、各種興行に開放されるものであった。
建設の際、道路の側傍、約六万五千平方メートルのトルコ三面フィールドを採用し、木造移動式スタンドを周囲に並べ、五万人を収容する一大野球場であった。
鳴尾に移ってからは、中等野球の気はますます旺盛となり、観衆あふれて準決勝、甲陽中ー今宮中、決勝、名古屋中ー今宮中では、観衆が場内に流れ込み、試合続行が不可能となる有様であった。こうした事態が阪神鉄に甲子園球場の建設を決心させた。
高校野球の聖地ともいうべき甲子園誕生のきっかけとなった鳴尾球場を永く銘記するため、その跡地に石碑を建立した。
一九九三年(平成五年)五月六日
朝日新聞社
日本高等学校野球連盟
西宮市
記念碑を囲うように鳴尾球場で開催された第3回大会~第9回大会までのトーナメント表も埋め込まれていました。

すぐ隣は「船公園」という名前の公園になっており、その名のとおり船の遊具もあります。
子連れでの散歩にも良いかもしれませんね。

運動公園なので野球もできそうなグラウンドもあります。

そしてすぐそばは甲子園浜です。
きれいな海・・・!というわけではありませんが、海沿いの散歩は心地よかったです。

鳴尾球場まとめ
聖地甲子園の前身・鳴尾球場。
マニアックな跡地ではありますが、甲子園から徒歩圏内と、野球ファンならアクセスしやすい立地です。
甲子園観戦のついてでに、ぜひ覗いてみてはいかがでしょうか。
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